浄土真宗のお坊さんのブログ

ないものねだりから あるもの探しへ
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坊主失格⑤



自分がずっとやってきたことは単なる刺激の入力と、それへの条件反射の連鎖である。そのオートマティックな流れにずっと支配されているだけのものを、自分の意思で行ってきたと思いこんでいただけにすぎなかったんだなあという認識が生まれ、今まで「ああしよう」「こうしよう」とあくせくしてきたことにまるで意味がないということが、自然と腑に落ちてきたのでした。「我」はないのに、あると思いこまされ動かされていることで、苦しみが累積していくだけ。
そして腑に落ちたと同時に、スッと重荷が下りたのです。(本文より)




いかに心をコントロールし、いかに人生をコントロールするのか。それを可能にするのが仏教だと考えている人も少なくありません。だからこそ「思い通りにならない」出来事の連続が人生です。いろんな言い訳を自分にでしながら正当化していますが、心の奥底をのぞいてみればとどのつまりは「自分の言うとおりにしろ」ということなのではないでしょうか。私自身も悩んだり躓いたりする時、よくよく考えてみれば自分の都合よくいかないから腹を立てているにすぎない自分が見えてきます。

そう思う心が駄目なのだとか、その心自体をコントロールするのだという考えもありますが、そういった考えの前提に「私の価値観」があります。その前提の価値観自体が見えてこなければいくら方向を変えようとしてもどこかに「我慢した」という気持ちが残り続けるのではないでしょうか。その満たされぬ心が他人が許せなかったり、義憤にとらわれ他人や自分を責めたりといった形で噴出してきます。

安田理深というお坊さんが「主観の固執」という言葉を残されています。私の価値観、私の損得、私の経験、私の判断、私の立場、私の好き嫌い、私の思いをしっかりとにぎって手放すこともなく自分(の思い)を必死に守ろうとして生きている姿、それが私たちの生き方の本質ではないでしょうか。

私たちは自分の欲望に忠実に生きることが「主体的な生き方である」とどこかで考えているのだと思います。少なくとも私はそうでした。欲望という言葉が聞こえが悪ければ、希望や夢、自己実現という言葉に代えても同じだと思います。死んだら終わりだ。生きているうちが花であり、好きなことをして楽しく暮らせば良いのだという人生観を語る大人を何人も見てきました。ただ、私の受取りでは仏教はその「主体性」を主体的に生きているという風には考えない。むしろ奴隷的な生き方なのだと。自分の思いに振り回された人生なのではないか?と問いかけているのだと思います。私たちが主体的に生きていると「思っている」だけで、実は目の前にぶらさげられた餌(思い)を必死で追いかける馬車馬でしかないのだと教えているのです。そういった自覚がないままに一生を終える。そういう生き方の中に沈んでいる存在を「凡夫」と呼び、自覚するつもりもなく生きている私たちを煩悩に捕らわれた存在として見ているのでしょう。

「あいつは駄目だ」「夫はなぜこんなことも出来ないのだ」という思いを持つ時、相手が悪いのか自分が悪いのかに終始してしまい「何を比べて駄目なのか」と「比べている自分の思い」が見えないのが私たちです。

私の思いと考えてきたものが「思いは私なのか」という問いに出遭う。理屈っぽくお話してしまいましたが、自身の苦しみがいったいどこからやってくるのか。そのことを明らかにするのが仏様の智慧を学ばせていただくことだと思います。

苦しんでいることは、救いではないが、救いの縁となりうる 

安田理深





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坊主失格④




人間とは、頭の中で考え続けることがくせになっている生き物です。論理的に物事を考えているわけではなく、ただぼんやりとしているときでも、「今日の仕事はきつかったなあ」とか「晩ごはんは、なにを食べようかなあ」とか「映画観たいなあ」とか、「自分ってクダラナイことばかり考えてるなあ。あーやだやだ」とか。とりとめのないことを考え続けているものです。雑念とはまさに雑な心であって、心がさまざまな夾雑物で散らかった状態になっていますから、感覚のセンサーが鈍くなるのです。
こうした「無知」によって心が現実の世界から離れ、妄想しがちになり、「脳内引きこもり」のような状態に陥ることが、すなわち愚痴(まよい)と解釈できる。目の前のことを感じるかわりに、「なにかいいことないかな」と空想したり、「昨日はヤな一日だったなー」と思い出したりする、その妄想のパワー、ということ。(本文より)



DVDプレーヤーには好きな動画を繰り返しみる「リピート機能」がついています。私たちはすでに過ぎ去った嫌な出来事であっても、心(頭)の中でずっとリピートしていると言えるのではないでしょうか。忘れたい、でも忘れられないという経験がある方もおられることでしょう。出来事そのものよりも、その出来事に対する感情や思いへの執着が堂々巡りの状態を生み出します。消化されない思い、まさに「浮かばれない」思いの裏側(奥底)を振り返り、見つめていく作業が必要になります。

思いの堂々巡りの状態に陥っているときには、思いに縛られてしまっていて自分が考えているつもりであっても視野が非常に狭くなっていたり思考の幅が単純になってしまっていたりします。私自身も「今そういう状態ではない」から言えるだけで、堂々巡りの状態の時にはなかなか抜け出すことはできないものです。

あるいは、意識していなくとも様々な事を考えながら思いながら生活しているということもあります。注意して自分の心を見つめてみれば、あれこれ心の中でつぶやきながら生きている自分を発見するのではないでしょうか。

「現実」とは言いながら、実は心の世界(頭の中の思いの世界)に生きているのが私たちなのでしょうね。そして、現代人であればあるほど身体性よりも自分の気持ち、頭の中の思いの方を重視するような生き方に知らず知らずのうちになっているのかもしれません。まずはそういった生活習慣・状態に気づくことが大事なことだと思います。

自己とはなんぞや、問うまではわかったように思うていても、
更めて問うと一番わからぬのが存在であるということが判ってくる。

安田理深



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「坊主失格」③



「慢」とは、自己をまるでいつも鏡に映しているかのように気にし、他人から見た自己の評価を気にする、ナルシスティックな心のあり方です。褒められれば調子に乗り、貶められれば惨めに落ちこみ、そんなふうに翻弄される自分を情けなく感じて、さらにガッカリ。そんな具合に、自意識過剰な欲望に、浮いたり沈んだりして苦しんできたのでした。
人間とは、じぶんの価値を認めてもらい、「自分はこんなにスゴいよ」というイメージをつくりたくて仕方がない生き物です。そして、他人から良く見られたいと思う以上に、自分自身の中で「格好いい自分だもんね」という安っぽいプライドを保ちたくて仕方がない。その欲望は大変に根が深いものです。多くの方々の悩みを聞いていると、究極的には、ほぼすべての現代人の悩みがこの「慢」に行き着くと言わざるを得ないところがあるようにすら思われます。(本文より)



旅先などで撮った記念の集合写真を見るときに、自分自身を真っ先に確認してしまうことはありませんか?。私たちは自分が好きで好きで仕方がないのです。中には自分が嫌いだという方もおられるかもしれませんが、好き嫌いは表裏一体。自分が嫌いというのは、頭の中の理想の自分(あるいは理想の他人)と比べて自分自身を貶めることによって自身のプライドを保っているのです。そういった考え方が「駄目」だとは思わないで欲しいのですが、自身の価値観のモノサシを問い直してみることは大事だと思います。ひょっとすると他人の価値観のモノサシの世界を生きてしまっている場合もあります。

私が学生の頃、仏教を教える先生に「人間は認められたい認められたいと言いながら死んでいく生き物だ」と教えられたことがあります。あれが正しいこれは間違っている、そんな偉そうなことを言っている私たちは、実は心の奥底で「無条件に私を受け入れて欲しい」と願っているのです。そんな恥ずかしい事は口に出来ないので、正しい間違っている、偉い偉くないなどと言いながら自分の存在を証明しようと必死になっています。そんな自分自身に気づくことが出来たなら、あなたの周りにいるいわゆる「嫌な人」もまた同じ不安と孤独を抱えて生きている人間なのだということが見えてくると思います。

そんな事を考えている私やあなたが駄目なのだと断罪するのが仏教ではありません。なぜなら仏様は私たちの心の奥底にある願いをすでに見抜いておられるからです。私自身が気づいていない、見えていない弱い、不安な私をすでに知っている。仏様の教えに触れるということは知識を得て偉くなることではなく、すでに私の事を見抜いておられたのだということに気づかされることです。

私たちがなぜ苦悩するのかという「原因」を実は私たちは知らないのです。知らないからこそ一つ問題が解決しても次から次へと悩みがやってくる。「悩みの種」とはよく言ったもので、「種」を明らかにしてくださるのが仏様の智慧(教え)だと私は受け取っています。

人間の心が求めるのはアヘン。仏様はアヘンから醒めることを求める。

安田理深






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「坊主失格」②

坊主失格坊主失格
(2010/12/22)
小池 龍之介

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「一切皆苦」とは、私たちが身体的に感じることのできる感覚は「苦痛」の刺激情報しか存在しない、ということ。その「苦痛」の刺激情報が脳内に送信されてデータ処理をされると、特定の条件下で「快楽」という脳内神経反応が生み出される。身体的には苦痛を感じているのに、脳内では快楽の神経回路が活性化しているだけなのです。この状態は、次のように申すこともできるでしょう。
快楽というものは身体を犠牲にして苦痛を与えながら、その苦痛情報を脳内で「心地いい」とデータ変換してつくりだされるものなのだと。(本文より)



「一切皆苦」とは法話などでもよく使われる言葉です。「苦」とは苦しみではなく「思い通りにならない」と考えてみるとよいと思います。もう一歩踏み込んで言うとすれば「不満足」とも言えると思います。私たちは生まれた瞬間から「不満足な状態」にあるのではないでしょうか。「心に穴が空いている状態」で毎日を暮らし、その穴をなんとか塞ぐためにあれこれ欲望にふりまわされているのです。テレビのCMや広告を注意深く見てみれば、不足を訴えたものが多いことに気づくはずです。満足よりも不足、足りない、減りますと言われた方が気になってしまう。「減る」ことを恐れて生きている。生物の本能と言えるのでしょうが、私たちは自らが生き物の一種であることを忘れ文明人として生きていますから、不足を恐れる心を見つめることもなく、ただまわりの自分の「外側」にある名声・財によって安心を得ようと必死なのです。

仏道の教えとは、外側に求めて得るものではなく、自身の内側の「心の穴」と向き合っていく道です。人生は自分の思い通りにならない。思い通りにしてくれるのが神様・仏様ではありません。どこまでいっても思い通りしようと躍起になっている私自身の姿を鏡に映すように気づかせ、思い通りにならない人生に対する「態度」「人生の居座り方」を学ぶのが仏教であると私は受け取っています。


財貨を依頼めば財貨の為に苦しめられる。人物を依頼めば人物の為に苦しめられる。
我が身を依頼めば我が身の為に苦しめられる。神仏を依頼めば神仏の為に苦しめられる。
その故何ぞや。
他なし、「たのむ」心が有相の執心なればなり。これを自力の依頼心という。

清沢満之師







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「坊主失格」①

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(2010/12/22)
小池 龍之介

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仏教に関する様々な書を書かれている著者のこれまでの人生を振り返りながら、自らの人生を題材にして人間の有り様を仏教的視点から分析した本です。自身をこのように語れるまでには、それこそ自己と向き合うという「苦行」があったことだと思います。

人間は、生まれながらに「足りていない」のです。足りていないところから始まり、それを埋めたいという欲求に翻弄されながら、生きていく。この「足りていないがゆえにウズウズしている」ことを、仏道では「渇愛」と申します。欲望に駆り立てられ「欲しくて欲しくてたまらない」という心のあり方です。足りていないから苦しくて、苦しいから欲しい。この「足りていなくて苦しいこと」こそが、欲の本質と申せましょう。(本文より)



自分自身の心の奥底にある「足りない」という衝動。このことを自覚することが仏道においてはとても大切なことだと私は思います。多くの場合、そこにたどり着く前に「何を得れば満たされるのか」ということばかりに思考がいってしまい、自分の外側のあらゆることを消費しながら満足することなく、人生はこんなもんだと自分自身を慰めながら、あるいはこんな自分になったのは環境のせいだとまわりを嫉み、憎しみながら生きている。それが私たちの本質ではないでしょうか。

子供の頃はモノを与えられば満足もありますが、大人になるにつれそれでは満足できず、肥大した自我は自己承認を求め続けます。私たちがあれが正しいや、あの人は間違っている、嫌いだなどと言うときは、要するに自分を認めてくれたのか、自分を大切に扱ってくれているのかということを言っているのです。

それはまるでブラックホールのように、埋めても埋めても空虚さが広がっていくだけの穴。その穴の中に、私たちは「必ず満たすことができる」と信じて、次々と得たものを投げ込んでいくのです。(本文より)



「何を得れば満足できるのか」といつもどこかで考え、モノで満たされなくなった人は、今度は精神世界で満足しようとする。そうやって仏教を学ぼうとする人、仏様に自分を認めてもらおうと努力する人もまた多いのです。「求めること」をやめよというわけではありません。自分自身とはそういう生き物(構造)なのでしょう。そのことに自覚的であるかどうかが問われているのだと思います。求めることにとらわれているのか、飲み込まれているのか。そんなことを考えたことはあるでしょうか。仏道を歩んだ人々は、まさにそこを見つめてきたのだと思います。どうやら私たちの心には「穴」が空いている。仏様の教えには学力や体力ではなく、空虚な自身に向き合う「勇気」が大事なのでしょうね。ただ、一人ではありません。先を歩かれた諸師がいます。心を見つめ続けてきた歴史こそが仏教なのだと思います。



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苦しみについて

仏教とはどんな教えなのかということを表す言葉に「抜苦与楽」というものがあります。苦しみを抜いて楽を与えるという意味です。私たちは苦しみというと人生における災難をイメージする場合が多いと思います。例えば病気が治るようにして欲しい、お金が儲かるようにして欲しい、成績がよくなるようにして欲しいなどなど、この状況をなんとかしてくださいと神仏にお願いする。困った時の神頼み。これは要するに今の自分の人生に不満だからどうにかしろと要求しているわけです。

仏教で説かれる「苦」とは「思い通りにならないこと」という意味です。仏教を学ぶ時に注意しなければいけないのは、自分の都合の良いようになれるよう祈ったり、修行したりするなど、思い通りににならない環境をどうにかするのではなくて、思い通りになれと思っている「あなたの思い」「求める心」をなんとかするべきだと言っているのです。まずこの区別がわからないと、仏教もまたわからなくなってしまいます。何か仏様の前で手を合わせてそれでもって何か叶えてもらおうとするものだと思ってしまうのです。それで叶えられないと「神も仏もない」と怒ったりする人もいるようです。肝心なのは「どうにかしようとする私」に注目することなのです。

まず自分が仏様に対して何かを願うという視点から、願っている私を見ている仏様はどのようなお心なのかという視点の転換が必要になってきます。この転換がないとなかなか仏教と言ってもよくわからないものになってしまいます。これだけお祈りしているんだからという見返りの心に支配されてしまう人もいます。これはとても厳しい教えだと思います。自分の都合の良い理由や理屈を与えてくれる宗教の方がどれだけ楽なことか。しかし他人に嘘はつけても自分自身に嘘はつけないのです。どこまで逃げようとも自分自身の現実から逃げることは出来ない。自分自身を見つめる勇気を持っていただけたらと願うばかりです。一人ではありません。お釈迦様もまた同じように生きた人だからです。そして仏道を歩んだ諸師達もまた、自分自身と向き合い続けた人たちです。先達の言葉を思索が杖となって私たちの道を照らしてくださいます。

世間を頼みにしつつ、宗教的信念に進むことが出来るという人があるなら、その人の考えは大いに矛盾しているし、その人はまだ実際に宗教の道に進んだ人でないことは明白である。そういうわけで、誰であれ宗教的信念に入ろうとする人には、全ての依頼心と全ての力み心を離れよと、私は勧めたい。

清澤満之





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悼む人〈上〉 (文春文庫)

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(2011/05/10)
天童 荒太

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「誰を愛し、誰に愛され、何をして人に感謝されたか」

本文より



 日々ニュースで流れる死亡報道。それらはコンテンツとして消費されて消えていきます。次の日には昨日のニュースなどなかったかのように新しいニュースがまた伝えられます。どこそこの国で2000人が亡くなりました。アナウンサーが正確に客観的な言い方で発する2000という数字に、私たちはどれだけのリアリティを感じることが出来るでしょうか。そんな埋もれてしまった死を訪ね歩きながら悼む青年の物語が「悼む人」です。当たり前のことですが、私たちにとってテレビの向こう側の名前も思い出せない人の死でも、その現場にはその人の生きていた生活があり、まわりに生きているその人と関係する人たちの生活があります。

 仏教では人生を生老病死と表します。当たり前のことじゃないかと思う人もいるかもしれません。しかし、私たちの普段の生活というのはこの当たり前の事から離れようとしたり、認めたくない、見ないようにしようという生き方になっているのではないでしょうか。生きていることは当たり前、いつまでも若いのは当たり前、いつまでも健康なのは当たり前、今日も明日も生きているのは当たり前。当たり前という「頭の中で考えた世界」に私たちは生きています。しかし、それが当たり前の事ではないのは宗教を信じているとか信じていないとかに関係なく誰もが納得できることだと思います。仏様は当たり前の道理を言っているのです。ただ、私たちはその当たり前を自分の当たり前で塗りつぶしていて見えていないのです。仏様はありのままに物事を見ておられますが、私たちは「あってほしいまま」に物事を見ているのです。あってほしいままの世界に生きていても、現実はそうはいきません。だから私たちから見て思い通りにいかないことが次々と起こってくるのです。その時に自分自身のものの見方や考え方、心の在り方に目を向ける人はあまりいません。むしろ自分の外側の世界を自分の思い通りに変えようとしたり、変わらない相手や環境が悪いのだと考えます。そうすると心に怒りや焦りが生まれてくるのです。

 今日も明日も生きていて当たり前の世界。そこで見落としてしまっていることがたくさんあるのではないでしょうか。今日、明日に命が終わったとしても当たり前の世界に向き合っている人がこの世には今もたくさんおられます。その方が見ている世界と明日も生きていて当たり前の世界に生きている私たちとではどのような「見え方」に違いがあるのでしょうか。どう考えるのか正解か、あるいはどっちが正しいのかということではなく、自分自身が見たり考えたりする「軸足」がどうなっているのかを「明らか」にしてくださるのが仏様の教えであると思います。例えば、自分の目の前にいる大切な人があと3ヶ月の命だとしたら、あるいは自分自身の命があと3ヶ月だとしたならば、今までの生活とは違ったものが見えてくるのではないでしょうか。私たちがどのような価値観、人生観の「世界」に住んでいるのか。自分の姿が鏡の前に立って初めて見えるように、心を仏法の鏡の前に映した時に初めて見えてくるものがあります。

 宗教なんで信じないと考える人は多いと思います。ただ、自分自身が実はありもしない当たり前という名の宗教を深く深く信じていたことに気づかされるのが仏様の教えだと思います。信じていないと思っていた私が、実はそうではなかった。生きるのが苦しいと思っていたけれど、実はその苦しみは自分自身の「世界」が作り出していたのだということが見えてきた。

 仏様の教えは「人々を苦しめている根本的な原因は何か」ということをずっと考えてきました。あなた様が抱える苦しみの原因を仏様は知っておられます。宗教と聞けば、何か自分の願いを叶えてくれるものと考えている方も多いのではないかなと思います。仏様は、私の都合がよくなって欲しいという願いではなく、私たちが心の奥底、自分自身も気づいていないような深いところにある願いを見ておられます。自分自身の心を見つめた先に、仏様の視線(願い)に触れる場所があります。

仏法の教えは救いということを明らかにするに極まるが、救いを求めている当面の我々は一体何物であるかという事を明らかにするのが真の救いである。仏教では外界の世間を変えずして自分そのものを変えることを教えるのが眼目である。

安田理深





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語り部としての僧侶

 毎年のことですが、新年はお寺の行事などでばたばたとしてしまい、ただでさえ更新が遅れがちなのに、新年のご挨拶も今頃になってしまいまいました。

 昨年からご縁があり、知り合いの講師の先生に呼ばれまして看護師の専門学校での特別授業に宗教者、お坊さんとして不定期ですが参加させていただいております。昨今は緩和ケア病棟の存在もようやくというべきか一般にも認知されるようになり、緩和ケアへの理解も少しずつではありますがすすんできているように感じられます。そういうなかで宗教的な考え方やものの見方について、実際に宗教者に話を聞く機会を持ちましょうという試みも増えてきているように思います。ただ、学生の中にも様々な信仰をもっておられる方もいますので、私としては学術的知識や信仰の本質にかかわるような部分よりも、宗教的なものに興味や関心を持っていただけるように補助線というかアプローチの仕方を試行錯誤しながらではありますがお話しています。意外というべきか、若い学生さんは興味を持ってくださり授業が終わっても質問しにきてくださる方もいたりします。

 特に仏道は自分自身の人生、心について学ばせていただく道ですから、知識だけではなく自分で命について考えてみるきっかけ、あるいは人生などについて話す場所が出来れば良いなと思います。自身の心や生きるということについて話す場所や聞いてくれる人がほとんどいないのが現代ではないかと思います。祖母祖父の死について、あるいは両親兄弟、大切な人の死についてさえ語れる場というのは実はあまりないのです。ですから、授業が終わってから、身内の死や友人の死について自分が考えたことや思ったことを打ち明けてくださる学生さんもいます。

語り部としての僧侶の存在

 特別授業の中では宗教者に対する偏見についても紹介される時があります。例えば、病院や福祉施設の中を僧侶が黒い衣を着て歩いていたら、あなたは不吉だと感じるのではないか?といったものです。あなたたちは白い制服を着て医療に従事する。それと何が違うのかと問題提起をされる先生もおられます。緩和ケア施設などでは、宗教者が常駐するなどの事例は少しずつですが増えてきています。宗派教団が運営する施設ですと礼拝室、お堂など設けられている場合もあります。もちろん強制ではなく自由に参加することができます。また、宗教者がいわゆる信者を増やす目的で施設を訪れるなどがないように宗教者側にもリテラシーが必要です。

 昨今は書店でも仏教というか仏教に関する本がたくさん見られるようになりました。いわゆる宗教書というジャンルだけではなくビジネス書や一般書籍のジャンルでも仏教のメソッドを使ったものが増えてきているように思います。お坊さん自体も、今までの「よくわからない存在」から「陽の下」に出てくると言いますかメディアや一般の講演会などにも僧侶が出てきてお話するなんて機会も増えてきています。そのことによって普段お寺などへお参りする習慣のない方や、敷居が高いと感じている方などに仏法のご縁を持っていただけるのは喜ばしいことだと思います。そういう場合には聴衆の事も考えてということもありますが、いわゆる「あの世」の話よりも、今を生きる智慧を論理的に離す事が私は多いです。

 でもどこかであの世の話やそういう神話的、物語としての死生観というものも大事なのではないかと思うようになりました。「あの世などない」「実感が持てない」「科学や医学が発展していない時代の昔の人の考え方だろう」というのは(特に若い世代には)もっともだと思いますが、人間の最後というかそういう論理的に考えるという力もない場合に最後に残るのは「物語」として語られてきたものではないかと思うのです。

 私自身お坊さんとして様々な人に出会う中で感じるのは、思いの外あの世の存在や死後の世界としての極楽というもの、あの世へいくという死生観の中で生きている方が多いのです。元気な時は「死んだら終わりだ」なんて強がっていても、病室で言えば「死んだ後はどうなるのでしょうか」と話してくる人も少なくはありません。昔の僧侶達が、「そんなのないよ」と言われながらも、それでも「あの世」を語り続けてきたのも理屈ではなく、物語としての死生観の大事さを知っていたからではないかと私は考えます。理論や理屈というのは、ある意味で健康だからこそできる思考だと思います。病気になったり、大切な人が死を迎えた時に、冷静に思考することなど無理だし、それは人間として自然なことだとさえ思うのです。

 「よくわからない存在」だったお坊さんだからこそ、「よくわからないこと」の解決や物語に説得力を持てたのではないかと思うことがあります。今でも、仏教の教理は知らなくても、なんとなく死ねば極楽に往生させていただいて仏様の仲間入りをさせていただくというようなことを漠然と思い描いている人は多いのではないかと思います。深く考えることなく、なんとなくそう思える、イメージできる、そういうものが実は生きる上で大事なことなのだろうなと私は思っています。今のお坊さんは理知的で理論的に易しく仏教を説くことにはすごく勉強されており優れていると思います。もう一方で論理的ではないけれど物語として、命終われば極楽浄土の蓮の華の上に生まれるのですよという物語もまた大事に伝えていくことが大切なのではないかなと年をとったせいか考えるようになりました。

 人間はその人のそれぞれの「物語」を生きているといえると思います。大きな統一した物語が失われた現代において、自分自身の人生観、死生観の物語をどのように考えていくのかということが大きな課題となってくるのでしょう。仏教の中でも特に浄土教は物語を大事にしてきた教えだと思います。極楽浄土の世界、その情景、物語を通して伝えようとしたもの。それを味わってみるのも大事なことだなと思いますし、そういうきっかけを持っていただけるような場を作ることが出来たら良いなと思っております。

今年もよろしくお願い申し上げます。合掌





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死者と共に生きる

 有名な仏教説話のなかに、キサーゴータミーのお話があります。おおよそこのような物語です。

 昔々、お釈迦様がご在世であった頃、ある村にキサーゴータミーという女性がおりました。彼女は幼い我が子を亡くし、絶望のなかにあり、亡くなった赤子を抱いたまま「この子を生き返らせてください」と家々をまわり、会う人に訴えますが誰もそれに応えることは出来ませんでした。見かねた村人が、近くの村にお釈迦様がいらっしゃっているそうだから、お釈迦様のもとへ行きなさいと勧めました。
 お釈迦様の元へ行った彼女は、訳を話しました。お釈迦様は、「この村の家々をまわって、芥子の実をもらってきなさい。(当時芥子の実はどこの家庭でもあるものだったようです)ただし、一度も死人をだしたことのない家の芥子の実でんければいけません。それをいただいてくるこうができたなら、その子は生き返ることが出来るでしょうと彼女に告げました。彼女は必死になって家々をまわりました。しかし、どの家の人も悲しそうに首を横に振るだけでした。死人を出したことにない家は一軒もなかったのです。

 キサーゴータミーは、生きとし生けるものには必ず死があるということ。そして、誰もがその悲しみを抱えながら生きているということ。諸行無常の道理に逆らい、自分の思い通りにならないと嘆いていたのはこの私であったと家々を訪ねる中でだんだんと気づいていきました。

 お釈迦様の元へ戻ってきた彼女は、「お釈迦様、どこにも死人を出していない家はありませんでした。誰もが親族の誰かを亡くし、その悲しみを持って生きていました。自分だけが死に遭遇したと思っていましたがそうではなかった。私もようやく自分自身の子供の死を受け入れることが出来ました」
後に彼女はお釈迦様のお弟子となられたと伝えられています。

 浄土真宗のようなご法話を聴く事を大事にする宗旨ならもちろん、そういう習慣のない宗旨であっても一度は何処かで耳にしたことがあるというくらい有名なお話です。私自身、学生の頃何度もこの話を聴きました。しかし、いまいち消化しきれないような気持ちがどこかにありました。お釈迦様は「生き返らせてあげよう」と言ったのにもかかわらず、結局生き返らすお話はどこかへいってしまっていることが気にかかったのです。もちろん、それが本筋ではないことはわかるのですが、お釈迦様がわざわざなぜそう言ったのか。キサーゴータミーの最も欲しているものを言い当てることによって行動に移させたのか。そのあたりがわかったようでわかりませんでした。

 何年かして、ふと小さい頃祖母が私に仏様は生きているものも命を終えたものも同じように大切にしてくださる方なのだと教えてくれたことを思い出しました。そして、仏様に仕える僧侶また、生きるものと死せるものを分けることなく手を合わせるのだと。そのことを思い出した時、この物語が心にすとんと落ちました。

 キサーゴタミーがとらわれていたもの。それは子供が死んでしまったという事実ではなく、「生きていることにのみ価値がある」という「考え方」「見方」ではなかったのかと思います。私たちは様々な事象に意味づけを行いながら生きています。意味のないものは受け取ることができない。お釈迦様は死んでしまった子供に意味を与える、母親の心の価値観、死生観を気づきによってかえさせ、意味(命)をもう一度紡ぎなおしたのではないかと思います。大切な人がいなくなってしまうことで、一度は生前の関係性は断絶されてしまうのかもしれません。しかしだからといってそれで終わりというわけではなく、関係性をもう一度紡ぎだすことが出来ると思うのです。

 キサーゴータミーは、生きていても生きていなくても、大事な我が子であることに気づいたのではないか。悲しみがすぐになくなるというわけではもちろんありませんが、生きていなければ、という価値観から少し離れた目線を得た時に、新たな関係性が見えてきたのではないでしょうか。生と死は表裏一体。死に手を合わす時、逆に生の本質が見えてくる。生だけを見ているならば、それは一面を見ているに過ぎないのだと思います。




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